※こちらの記事は2021年8月15日の記事を一部加筆修正して再投稿しています。
第二次世界大戦終戦から76年。
千種区に残る戦争に関係する場所を訪れてみました。
千種公園の『爆撃の痕跡』
ちくさんでも何度か記事にしていますが千種公園には「爆撃の痕跡の残る壁」が移設されて残されています。
本文
第二次大戦の末期、再度の名古屋空襲はこの地にあった名古屋陸軍造兵廠千種製造所に甚大な被害を与えた。この碑は、その爆撃による痕跡を残す外堀の一部を移設し戦争の記録として残したものである。
昭和六十二年一月
戦時中「名古屋陸軍造兵廠千種製造所」があった跡地に千種公園はつくられています。
軍事工場ということもあり、名古屋空襲の際にはこの周辺にも爆撃による大きな被害があったそうです。
↓ヤフーの記録サイトによると千種区は名古屋の中でも特に被害が多かった地域のひとつのようです。
※参考 戦後70年~地図と写真で辿る日本と名古屋の空襲
https://map.yahoo.co.jp/blog/archives/20150805_column_postwar.html
パネル展示
毎年夏休み期間は、遺構に関する展示パネルが掲示されています。
平和公園 名古屋陸軍墓地
平和公園には陸軍墓地があります。
かつては東区出来町にあったものが区画整理により移転したそうです。
名古屋市平和公園の一角に「陸軍墓地」があります。明治9(1876)年、陸軍省は名古屋市東区出来町3丁目に陸軍将兵の埋葬と追悼のために、「陸軍埋葬地」を設置しました。
その後「陸軍墓地」と名前を変え、昭和31(1956)年に戦災復興土地区画整理事業の一環として、現在の平和公園に移転されたものです。ここには、個人墓碑・合葬墓碑合わせて730余基があると言われています。
https://peace-aichi.com/piace_aichi/201106/vol_19-4.html
覚王山軍人墓地跡
かつては覚王山にも月ケ丘軍人墓地があったそうです。1994年に知多の中ノ院に移設されましたが今はその名残だけ残されています。
こちらの兄弟像は浅野祥雲さん作とのことです。
青年像も残されています。
このあたりです。
日清戦争第一軍戦死者慰霊碑
日泰寺の一番奥側にあります。周囲は大砲で囲われています。
陸軍の境界柱
いくつかのサイトで見ましたが猫洞にあった軍事演習場の境界を表す柱だそうです。
少し見づらいですが「陸軍」の文字が彫られています。
民家の横にぽつりと残されています。
こちらのすぐ向かい側です。
城山八幡宮の鳥居
私も知りませんでしたが城山八幡宮の鳥居にも爆撃の跡が残っていたそうです。(今は塗り替えられています。)
こちらかなり前に撮った写真でこのサイズしか残っておらず見づらいですが
鳥居の右側の横の部分は爆撃の跡といわれているそうです。
今は朱色に塗り替えられています。
不発弾
少し話はそれますが、ちくさんを始めてすぐの2019年6月には小松町のマンション建設現場にて不発弾が発見されたこともありました。
※過去の画像です。今は工事が進んでいます。→建設も終了しています。
76年以上経っても戦争の跡が残っています。
これからも”戦後”がつづくことを願って。。。
千種区の記録のひとつとして残せればと思います。
忙し日々の生活でどうしても忘れてしまいがちですが、ときどき平和についても思い起こしていければと思っています。
※この記事情報は2021年8月15日時点のものです。
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